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内子座文楽のあゆみ

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年2月2日更新

其の壱 柿おとしは人形浄瑠璃

江戸から明治期にかけて木蝋や和紙などの生産で繁栄した在郷町、内子。

そんな経済的に余裕のあった時代を背景に、芸能をこよなく愛する町民の熱意によって大正5年(1916年)に誕生した芝居小屋=内子座の記念すべき柿おとし興行は、淡路を拠点に活躍していた吉田伝次郎座による人形浄瑠璃でした。

愛媛県は、昔から淡路系の旅回り一座の影響で農民達による人形浄瑠璃が各地で盛んに行われており、地元ではデコ芝居といって親しまれていました。

娯楽の少なかった当時の庶民にとって、内子座にやってくる興行は大きな楽しみの一つであり、伝次郎座の柿おとし公演は、弁当や酒、肴などを持参した大勢の観客で大盛況だったと伝えられています。

竣工当時の内子座

其の弐 新聞記者のひらめきから

それから長い歳月を経た平成4年(1992年)、この年の春に東京から松山へ転勤となったひとりの新聞記者によって、再び内子座と文楽が結び付けられます。

初めて内子座を見学に訪れ、その江戸情緒が漂う独特の空間にすっかり魅せられた記者・石塚義孝氏は、誰もいない二階の桟敷席に腰を下ろして舞台を見つめていた時、ふと「ここで文楽を上演できたら素晴らしい!」とひらめきました。

仕事柄、様々な地方を回り町の活性化に悩んでいる人々を見てきた彼は、内子座のように全国的にも数少なくなった江戸風の芝居小屋で、江戸時代に最盛期を迎えた文楽を上演できたら素晴らしいイベントになるに違いないと考えたのです。

折しも、お隣の香川県では金丸座を舞台とした「こんぴら歌舞伎大芝居」が全国的に注目を集めていましたので、内子町は文楽で町興しができると確信したのでした。

二階大向こう

其の参 実現までの険しい道のり

石塚氏は早速、松山で旅行代理店の支店長を務めていた友人の熊代利昭氏に相談を持ちかけました。

「こんぴら歌舞伎大芝居」の企画にも参加した経験のある熊代氏は即座に賛同し、こうして内子町とはそれまで縁もゆかりも無かった2人が発起人となり、内子座での文楽定期公演の実現に向けた取り組みが始まったのです。

しかし、ここからの道のりは決して平坦ではありませんでした。

まず、それまで大阪と東京以外に定期公演を行ったことのない文楽にとって、一地方の町興しのために日程を割くなど前例のないことであり、文楽協会の当初の反応は「四国の山あいの田舎町に、果たしてお客さんが集まるのだろうか」という懐疑的なものでした。

なにより、内子座を管理している行政や地元住民からの理解と協力を得ること、そして多額となる公演経費をどう捻出するかといった大きな問題を解決しなければなりませんでした。

獅子口

其の四 愛媛の観光の起爆剤に

そこで石塚氏と熊代氏の2人は、愛媛県内の観光関係の企業や団体、マスコミなどを巻き込み、平成5年(1993年)12月に「愛媛広域観光と内子文楽を促進する会」を結成。

町に対しては、内子座での文楽公演を起爆剤に愛媛の広域観光ルートづくりを目指すことを、また文楽協会に対しては、江戸時代に近い雰囲気の中での公演は、文楽業界の発展ばかりでなく、伝統芸能ファンにとっても意義のあることだという趣旨を掲げ、積極的な働きかけを始めました。

こうした同会の取り組みや熱意が実り、町と文楽協会も前向きに開催を検討するようになった結果、内子町の町政40周年にあたる平成7年(1995年)に、記念事業の一つという位置づけで第1回公演を行うことが決定したのです。

その後、同会の支援を受けながら、行政と地元の有志によって組織した公演実行委員会が主催者となり、いよいよ本番に向けての本格的な準備に入っていきました。

公演決定を伝える新聞記事

其の五 幸先のよい船出

平成7年(1995年)5月、内子町と文楽協会は東京・赤坂のホテルで記者会見し、内子座で文楽の定期公演を開催することを全国に向けて発表。

そして、同年9月30日から2日間の日程で、記念すべき内子座文楽の第1回公演がついに幕を開けました。

場内は全国の熱心な文楽ファンで賑わい、大変な熱気に包まれました。

舞台の前には町の特産である和蝋燭が灯され、江戸の風情が醸し出された幻想的な雰囲気のなか、観客は国内最高級のプロの技に酔いしれました。

これで弾みがついた町と実行委員会は、翌年以降も公演を継続していくことに乗り気となり、第2回公演は第1回公演から約半年後の平成8年(1996年)4月29日と30日に早くも行われました。

ゴールデンウイークをにらんでの開催はより多くの旅行客を呼び込み、さらに翌年の第3回公演では公演日数を3日間に拡大するなど、回を重ねるにつれ内容も大掛かりなものになっていきました。

満員の場内

其の六 五年目に味わう挫折

しかし、当初からの懸案事項であった多額な公演費用が、次第に町の厳しい財政状況に大きな影を落としはじめました。

町興しの一環ということで多少の持ち出しは覚悟していた行政でしたが、公演の規模が大きくなるにつれて事業費も莫大な額となり、観劇料金を値上げしてもなお大幅な赤字決算という状況が続きました。

また、宣伝不足などが原因でチケットの売り上げは常連客を除いて伸び悩むようになり、さらに公演に対する主催者と町民の温度差の違いが徐々に表面化し、はじめは物珍しさも手伝って関心を寄せていた人々の心もだんだんと離れていくようになりました。

町議会でも厳しい追求を受けるようになり、町興しとはいえ一事業に対してこれ以上町が負担することはできないとの判断により、内子座文楽は平成11年(1999年)の第5回公演終了後に取り止められることが決まりました。

実行委員会は解散となり、公演の実現に多大な貢献のあった石塚氏と熊代氏、それに文楽協会との関係も途絶えてしまいました。

鳥屋

其の七 もう一度内子座に文楽を

公演の取り止めが決まってから、町役場には全国の内子座ファンや文楽ファンからたくさんの電話や手紙が寄せられました。

「せっかく愛媛で本物の文楽が観られるようになったのに、残念」「観劇料を値上げしてもいいからぜひ再開してほしい」など、その多くが突然の休止を惜しむ声でした。

しかし、このことを誰よりも悔しく思っていたのは、道半ばにして解散することになった実行委員会のメンバーたちでした。

「運営方法を根本から見直せば、決してやれないはずはない。」「このままでは尽力してくれた石塚さんや熊代さんたちに申し訳ない。」「内子座は博物館や資料館じゃない。興行が打たれてこそ価値がある。」・・・メンバーは皆、心のどこかでそう感じていました。

また、当時の町長も立場上取り止めざるをえなかったことをずっと心残りに思っていました。

こうして、第5回公演から約2年の休止期間を経た平成13年(2001年)、町と実行委員会は前回の反省を踏まえ、内子座文楽の復活に向けてもう一度立ち上がったのです。

内子座の外観

其の八 心機一転の再出発

再開への体制を整えるにあたり、まず行政の担当部署がこれまでの町並保存対策課(当時)から教育委員会へと移行されました。

これは、町興しや経済の活性化を図るという商業・観光面を重視した当初の目的から、日本の誇りである伝統芸能=文楽と、全国的にも珍しくなった芝居小屋=内子座という二つの貴重な文化遺産を次世代に継承していくことを柱とする文化振興面を強調した考えによるものでした。

また、これにともない親子連れや学生など若い世代が文楽に親しんでもらえるよう、公演の開催時期を夏休み中の8月に設定したり、町内の小・中学校に技芸員を招いての文楽レクチャーを企画したり、県内で現在も活動を続ける農村文楽一座との交流を図るなど、より教育的な観点からの取り組みを進めることにしました。

そして、大きな障害のひとつであった事業収支の問題では、「わが国にとって大いに価値のある文化事業」であることを国や県をはじめ多方面に対して働きかけ、助成や支援を得るなどして赤字を最小限にとどめるよう努力しました。

鏡開きの様子

其の九 日本の伝統文化を後世に

こうして再出発をきった内子座文楽は、平成14年(2002年)8月31日におよそ3年ぶりとなる復活公演を開催。

この日を待ちわびた大勢のファンで賑わい、看板イベントが戻ってきた内子座は再び観客の熱気と歓声に包まれました。

さらに、平成15年(2003年)に文楽がユネスコの無形文化遺産に選定され、名実ともに「世界の宝」となったのを機に、これまで以上に幅広い層からの注目や関心を集めるようになり、「初めて文楽を観たが、演じる方の息遣いや人形の細やかな仕草まで生き生きと伝わってきて感動した」「ほかの劇場にはない迫力、そして舞台と客席の一体感が素晴らしい」など、この公演をきっかけに文楽の魅力にとりつかれた新しいファンも生まれてきました。

以降、現在に至るまで試行錯誤を繰り返しながらも、日本の優れた伝統文化を後世に伝えたいという思いで定期公演を続け、いまや内子座の夏に欠かせない風物詩として全国の文楽ファンに愛されています。

いにしえの人々が味わった芝居の醍醐味や感動を、あなたもぜひ内子座文楽で実感してください。

二人三番叟