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高橋邸ゆかりの人物

更新日:2010年2月26日更新 ページID:0011464 印刷ページ表示

内子聖人・高橋吉衡(よしひら)翁

趣のある廊下

古くからこの地に移住した高橋家は「五百木屋」の分家で、明治時代の当主高橋吉衡翁は嘉永3年(1850)の生まれである。
 四国の片田舎にあって、武芸はもとより漢学を学び、数学をその道の権威上野清氏に学ぶ等、青年時代からすでに立派な教養と識見を備えた人で、遠近稀に見る人格者として人々の尊敬の的になり、相伝えて「内子聖人」とまで崇めあられるようになった人である。 (大塚榮三著「高橋龍太郎翁」新文化研究会発行・昭和26年6月25日より)

 教育者として尊敬された吉衡翁は、「化育小学校」の初代校長を勤めるなど、近隣青少年の訓育に尽力し、明治時代の著名な内子人の輩出に寄与しました。

高橋龍太郎翁

高橋龍太郎翁レリーフ

 明治8年(1875)7月に内子町で生まれる。
 内子聖人といわれた教育者としての父吉衡氏の訓育を受けた後、松山中学校、第三高等学校(現京都大学)に学び、大阪麦酒株式会社(アサヒビール株式会社の前身)に入社。
 1898年から6年の間ビール醸造研究のためにドイツに留学。

 帰国以来明治、大正、昭和の半世紀を国産ビール一筋に歩み、大日本麦酒株式会社社長に就任するなど、我が国ビール業界の功労者である。
 戦後は、日独協会会長、日本商工会議所会頭など、経済界の巨頭として活躍し、第3次吉田内閣のときには通産大臣として、日本経済の復興に尽くすなど功績は多く、1964年に勲二等旭日重光章を受けた人である。